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鳳凰小屋とその歴史

 鳳凰小屋は、南アルプス鳳凰三山、地蔵岳の直下に位置する山小屋です。標高は約2,380m。シラビソやカラマツの森に囲まれ、小屋の近くを沢が流れています。木々が風をさえぎってくれるので気候が緩やかで、水音や野鳥の鳴き声を聴きながらのんびり過ごすことができます。
 初夏から秋にかけては、美しい花々に囲まれます。鳳凰三山にしか咲かないホウオウシャジンや南アルプスでしか見られないタカネビランジ。それ以外にも多種多様な花々に心癒されます。秋になると、紅葉の見頃が二度あります。10月初旬にはダケカンバとナナカマドが競い合うように山肌を赤と黄に染め、それらが散った10月末頃からは澄んだ晩秋の青空の下、カラマツが静かに山を黄金色に染めます。
 花崗岩(かこうがん)に育まれた、おいしい水も鳳凰小屋の名物です。飲むと疲れが取れて元気が出ます。無料で提供していますので、ぜひ汲んで行ってください。

鳳凰小屋の歴史

「鳳凰小屋」の創業は、昭和7年(1932年)にさかのぼります。それ以前は、「北御室(きたおむろ)巡視小屋」という山梨県営の小屋がありました。「巡視小屋」というのは、主に山の管理をするための小屋で、そこで時々登って来る登山者のお世話もしていました。これが鳳凰小屋の前身です。
 北御室巡視小屋を管理していたのは、韮崎市円野町の細田芳三(よしぞう)でした。その後、芳三は戦争に出兵することになり一度小屋を離れます。戦争が終わり帰って来ると、元あった北御室巡視小屋はすっかり荒れ果ててしまっていました。芳三は小屋を作り直し、そこを「鳳凰小屋」と名付けました。

「北御室巡視小屋と細田芳三」
北御室巡視小屋は、大正11年(1924年)建設。山梨県が管理する小屋でした。
「昭和7年(1932年)建設の初代鳳凰小屋と細田芳三」
細田芳三が私財を投じて建設しました。材料は現地のものを使い、地元の人の力を借りて建てたそうです。当時の鳳凰小屋は、冬が明けると雪の重みで壊れていることも多く、何度も改築が行われました。収容人員は25名ほど。現在の冬季小屋の位置にありました。
「昭和33年(1958年)建設の第二鳳凰小屋」
昭和31年(1956年)5月、日本隊のマナスル初登頂に日本中が湧き、第一次登山ブームが起こります。急増する登山者に対応するため、新たに建てられたのがこの「第二鳳凰小屋」です。現在の水場の奥にある台地に建設されました。大工さんを雇って建てたので、立派な作りです。1975年(昭和50年)頃に台風で流されるまで、多くの登山者を迎え入れました。

※この頃の歴史については、こちらのブログにまとめています。
「70年前の鳳凰山について調べてみました」

二代目、細田倖市

細田倖市オーナー。鳳凰小屋ひとすじ66年の大ベテラン。84歳の今も現役です。

 昭和34年(1959年)、細田芳三の長男、細田倖市(こういち)が18歳で鳳凰小屋に入りました。今日(2025年)まで続く名物オーナーの物語の始まりです。
 しかし登山ブームに後押しされ、前途洋々と思われた彼の鳳凰小屋デビューは、波乱の幕開けになります。同年8月12日に未曾有の災害となった「七号台風」が山梨県西部を直撃。鳳凰小屋は鉄砲水に流されて全壊してしまったのです。
 倖市は残された第二鳳凰小屋を拠点に営業を続けながら、翌昭和35年(1960年)鳳凰小屋の再建に取り掛かりました。当時は今と違ってヘリコプターも無ければチェーンソーも無く、作業のほとんどが人力でした。今ではもう見ないような大きなのこぎりで倒木を切って小屋の前まで担いだり、60kgもある発動機を強力(ごうりき)で担ぎ上げ、それを使って丸ノコを回し、柱や板を作ったそうです。工事には6月頃から取り掛かり、9月中には新しい二階建ての立派な鳳凰小屋が完成しました。当時の人たちのエネルギーにただ驚くばかりです。

「昭和35年(1960年)建設の鳳凰小屋」(細田倖市撮影)
七号台風の被害の翌年に建てられた新築二階建てです。当時としては、山小屋の中でもかなり立派な建物でした。12年後の昭和47年(1972年)、冬の間に雪崩で吹き飛ばされ、全壊しました。

鳳凰小屋カレー、始まる

 さらに翌昭和36年(1961年)には、倖市は南アルプスの山小屋で初となる食事提供を始めます。メニューは夕食がカレー、朝ご飯が漬物・梅干し・味噌汁のセットでした。夕食のカレーは、鳳凰小屋の名物として今に引き継がれています。
 当時はまだヘリコプターがありませんので、食料の用意が大変でした。まずお米は登山者に持って来てもらっていました。二食つきの場合は一人三合のお米をお願いしたそうです。お米以外の野菜などの食料はすべて鳳凰小屋の方で用意していました。この頃は山岳部の学生さんにアルバイトがてらよく歩荷(ぼっか)をお願いしたそうです。
 食事の準備はガス釜や炊飯器もありませんから、薪で火を起こし、その上に飯盒(はんごう)を吊るし並べて宿泊客の持参したお米を炊きました。それと同時並行でカレーを作りました。宿泊者が多い時は一度に15、16個の飯盒を同時に炊く時もあり、火加減や炊き加減の管理が大変だったそうです。
 こうしたやり方が昭和52年(1977年)頃まで続き、その後ヘリコプターでの空輸に替わっていきました。

 その後、鳳凰小屋は二度の災害と三度の建て替えを経て、現在の新しい鳳凰小屋になりました。

「昭和57年(1982年)頃の鳳凰小屋」
昭和56年(1981年)、台風による鉄砲水が鳳凰小屋を襲いました。台風が過ぎ去った後、本館の玄関には大木が突き刺さっていたと言います。スタッフは避難しており、間一髪でした。それらを片付け、針葉樹の若木を植え直し、現在のような庭とテラスができ上がりました。
「秋色深まる先代鳳凰小屋」
「現在の鳳凰小屋」
令和6年(2024年)10月24日、約一年の工事を経て新しい本館と冬季小屋が完成しました。約半世紀ぶりの建替工事でした。多くの困難がありましたが、職人さんたち(写真)のがんばりにより無事竣工を迎えました。

※他にも細田オーナーの動物写真家や虫博士の一面など、ご紹介したい内容がたくさんあるのですが、現在準備中です。