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約70年前の鳳凰山について調べてみました

一つ前のブログの話がキッカケになり、昭和30年代、約60~70年前の鳳凰山について調べてみました。

参考資料は、

昭和36年初版『南アルプス北部アルパインガイド』(山と渓谷社)

これに加え、鳳凰山の生き字引きであり、昭和34年から鳳凰小屋を営んでいる細田オーナーの証言を元にしました。

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~昭和30年代、日本に一大登山ブーム到来~

(撮影者…細田芳三さん、細田倖市オーナーのお父さんです)

昭和30年頃は、戦後10年が経って日本が復興を果たし、多くの若い人が山に向かうようになった時代でした。

すでに昭和20年代後半から大学山岳部や社会人山岳部が覇を争い、国内の難ルート初登頂を競い合うように登っていました。

しかし、「登山はあくまで時間とお金に余裕のある富裕層の楽しみ」というのが当時の常識。戦前から昭和20年代にかけて、登山は誰もが趣味にして楽しめるものではありませんでした。

この流れが大きく変わったのが昭和31年(1956)。日本隊のマナスル世界初登頂の偉業に日本中が沸き立ちました。豊かさを取り戻しつつあった当時の日本で、多くの若者たちが山に向かうようになり、第一次登山ブームが訪れました。

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~昭和30年代の鳳凰山登山~

(賽の河原からの甲斐駒ヶ岳。上記書籍より引用)

現在の鳳凰三山はマイカーや公共交通機関で手軽に登山口まで入れますが、当時は登山口まで通じる車道はありませんでした。

登山者は初日に最寄り駅(韮崎・穴山・日野春)を降りて歩き出し、平川峠か鳥居峠を越え、3~4時間ほどかけて登山口の御座石鉱泉・青木鉱泉へ到着。そこからやっと現在と同じ登山が始まって、5~6時間かけて鳳凰小屋に一泊。

二日目は、三山を縦走して夜叉神峠から芦安まで約2時間歩き、芦安でバスに乗って帰っていたようです。

今の行程よりも計5~6時間長い道のりですが、多くの方が今と変わらず1泊2日で山行を終えていたそうです。当時の方々の健脚ぶりが伺えます。

その後、昭和36~37年頃になって、穴山駅から御座石鉱泉にバスが走るようになったそうです。

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~(おまけ)北岳への最短ルートは鳳凰山越え?~

南アルプス最高峰の北岳は、昭和20年代までは鳳凰山を越えて行くのが最短ルートでした。

初日は↑と同様に駅からスタートして鳳凰小屋泊。二日目に赤抜沢ノ頭を越えて早川尾根に入り、高嶺から白鳳峠を経て広河原へ。登り返して白根御池小屋まで登り返して二日目終了(強い人は山頂を越えて今は無き北岳小屋まで)。三日目に山頂をピストンした後は同ルートを戻る。計5日の行程でした。

これが昭和30年秋には野呂川林道の夜叉神トンネルが開通。かつて1日かかった道のりがバスで約1時間にまで短縮されました。これに翌年のマナスル登頂→登山ブームが重なり、北岳に多くの登山者が訪れるようになったようです。

戦前の登山の名著である松濤明『風雪のビヴァーク』には、ドンドコ沢をピストンして、北岳に登る記述が出て来ます。

交通網が未発達だった当時の人々が鳳凰山から北岳を望み、さらにその頂きに立った時の感動は如何ほどのものだったろうかと、そう想いを馳せずにはいられません。

※続く

次回は~昭和30年代の鳳凰小屋篇~を書けたらと思います。あまり期待せずにお待ちください。

(アオト)

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