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洗濯物と山登り

 雨が続いて、洗濯物を生乾きのまま取り込んでは外に干し、外に干しては取り込んでいると、なかなか本を読む気も起きないし、山に行く気も起きてこない。
 今シーズンの鳳凰小屋の営業が始まって間もない頃、北岳に行けなかったことがありました。行く機会を得たのですが行けなかった。「明日、北岳に行ってくるか」と聞かれ、「行ってきます」と返事をし、急いで準備を整え、地図を広げてルートを決めて、それを通して心構えを作っているうちに、あることに気がつきました。洗濯物が乾いていない。山小屋生活の難点は、湯船につかれないことでもなく、電波が繋がりにくいことでもなく、洗濯物がなかなか乾かないことなのです。
 出発の前日は、強いにわか雨の降る日でした。遠くの方で雷がゴォォォと低い音を轟かし、雨がぱらつき始め、だんだんと音が大きくなり、稲妻が空をつんざくが見えるようになる。やがて光と音の遅延が小さくなっていくと、洗い物を中断し、カッパを脱いで小屋に避難する。
 洗濯物も乾いていない。中断した洗い物も炊事場に残ったまま。あまつさえ小屋の発電機のスイッチを入れて、ツマミをひねったあとに、手前にぐっと引っ張るひも状のものを勢い余って引きちぎってしまったのもあの晩でした。そんな凶兆が続いて表れると、山行は中断せざるを得ません。
 そんな苦い経験もしましたが、この度ようやく北岳に行くことができました。例によって例のごとく、出発の許可は前日に言い渡されるのですが、心構えはしっかりと整っていました。
 前回のブログ「山の写真の取り方」で書いたことですが、山を登っているとき、自分が登っている山の写真を撮ることはできません。こちらから向こうを眺めることしかできない。鳳凰小屋で働き始めて、はや四ヶ月が経ち、鳳凰三山には何度か登り、いつも向こうの北岳や甲斐駒ヶ岳を眺めていたのですが、ようやく向こうからこちらを眺める機会を得たのです。
 北岳山頂へは、帽子が飛ばされないようにしっかりと押さえて歩かなければならないような強い風が吹きすさび、山の斜面では気流に乗って絶えず雲が発生し続ける中、霧よりは粒が大きいけれども、雨と呼ぶには少し小さい水分を含んだものを全身に浴びながら登頂しました。
 どんな景色に人は心を動かされるのか?
 計画通りに物事が進み、雲一つない晴天の中、山頂から景色を眺めたとき、「ああ、なんだこんなものか」と思った経験が僕には何度かあります。
 今回の山行では4日間とも晴天が続き、晴れやかな気持ちで北岳、間ノ岳、農鳥岳の「天空の縦走路」と呼ばれる稜線を歩き続けることができ、遥か遠くに地蔵岳のオベリスクを眺めるたびに、自分が歩いてきた道程を思い返しては、「俺はあんな遠くから歩いてきたのか」という感慨に耽っていたのですが、山行を終えたあとに振り返ってみると、北岳山頂で景色も何も見えないなか、人間には到底敵わない圧倒的な自然の力に畏怖し、「一刻も早くこの場から立ち去らなければならない」と感じながらも、雲の切れ間から少しでも景色を眺められないかと待っていたあの時間が最も濃密だったのではないかと思うのです。その自然の崇高さに僕は心を動かされていた。
 計画を立ててしっかりと準備をすることも大事だけれど、計画通りに行かず、期せずして出会ってしまう偶然的な出来事や景色に人は心を動かされるのではないか。
 とはいえ、北岳に行ってからこの文章を書くまでに、3週間が経ってしまいました。旅の記憶を整理するのに時間が掛かったのでもなく、文章を練り上げるのに時間が掛かったのでもなく、洗濯物が乾かなかったからです。
 洗濯物よ早く乾け。

カワシマ

カテゴリー:スタッフの日常

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